
真実の「愛」とは・・・
今日は母の日ですね。
この世に「私」という命を降ろしてくれた、偉大なる母の存在に最大の愛と感謝を贈る日。
そんな日にちなんで、今朝は
「愛」という大きすぎる概念について、自分に問いを投げかけてからじっくりと瞑想に入ってみた。
静寂が流れる自分の中心から湧き出た答えは、、、
「存在の認識」
そもそも全ては「愛」とよくいうけど、大きすぎて掴みどころがない。
そして、「愛」という言葉にポジティブで美しい概念ばかりをくっつけているような感じが、自分としてはどうしても抵抗があった。
「愛」という言葉を使えば使うほど、胡散臭く感じる。
以前ブログで、「愛」の反対は「無視」という記事を書いた記憶があるけど、
それも間違いだということに気づいた。
そもそも全てが「愛」という前提から観ていくと自分が感じられている世界全てが「愛」でできているということになる。
見るもの、触れるもの、聞こえるもの、香るもの、味わうもの、、、、
五感で感じる、そこに「在る」と認識できるもの全てが「愛」
つまり、意識を向けてそこに在るという認識に至ることで、自分の世界にそれを存在させ愛という生を宿す。
だから「無視」ということは、すでにそこに在るという認識の上で意識的に無いものとして蓋をしてる状態なわけなので、それもすでに「愛」の枠に中に入っていることになる。
もちろんこの考察は、全ては「愛」という前提での話だけど、そう考えると、
自分が認識できるもの(存在)全てによって、私たちは様々な感情を伴う経験、体験が可能になるわけで、そこで味わう感情がどんなにネガティブなものであっても、結局はその根本にある「愛」でしかない。
無視したくなるものの奥には、みたくない感情や恐れがあるのかもしれない。
でも、その蓋を思い切って開けて、ネガティブもポジティブも全てを受け入れる!という覚悟を持った時、自分の「愛の器」がどんどん広がる気がした。
全ての体験に通じることだけど、
特に恋愛感情を伴う、特定の人を愛することに関しては、この両面の感情が否応なく強力に現れる。
だから、人は人を本当に愛するということにどこか恐れを感じてしまい、その苦しさから逃げるように先に蓋をしてしまいがち。本気で愛してしまうことの恐れ。
愛が大きくなればなるほど、それをいつか失うという恐怖も比例して大きくなるから。。。
でも、その時に心から本気で人を愛する感覚の素晴らしさ、そしてそんな自分にフォーカスし続け、その真逆の恐れも全て受け入れて許容した時、その感じた感情の葛藤の大きさの分だけ、自分の中の愛が広がっていく。。。
今の自分が存在として認識できるものなんて、宇宙全体からしてみればほんの米粒くらいのものでしょう。
それなら、自分が自分の世界に存在させたもの全てを、
目にみえる物質はいつかは無くなるもの!という悲しみや恐れも全て許容した上で、
そこにそれが「在る」限り最大限の愛を送り続けたいと強く感じた。
何よりも、自分が見返りなくただその人を愛するだけの存在としていられる時の魂の震えるような喜びは、それが真実なのだと教えてくれたから。
感覚的に受け取ったものを文章にしてみましたが、なかなか想いの3割ぐらいしか文章化できず、ツッコミどころ満載なのは重々承知ですが、、、(^^;)
タイミングの人の何かの気づきになれば幸いです!